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迎接院ブログ

芋代官を紙芝居で見る

芋代官紙芝居

芋代官のおはなし はじまり、はじまり

みんなは、サツマイモ好きですか?
どうやって食べる?
天ぷらに、大学いも、焼き芋にスイートポテト、
※○○好きな人?どれもおいしいね。
今日は、このサツマイモを私たちに教えてくださった芋代官さまのお話をしたいと思います。

芋代官様の名前を教えてあげます。
覚えられるかな?
井戸平左衛門様と言います。
井戸さまは、今からおよそ300年ほど前に活躍されたお侍さんです。

井戸さまは、60才の時、
みんなのおじいちゃんやおばあちゃんぐらいの年かな?お隣の島根県の石見銀山のお代官さまになります。

井戸様の活躍はうちのお寺に伝わる宝物 ふる~い「紙芝居」で紹介します。
タ~イムスリップ!

芋代官切腹

農林省撰定
帝國農會企畫 社團法人農山漁村文化協會製作

 

今からおよそ三百年前、享保十六年の九月、
新しく石見代官に任じられた井戸平左衛門は 今、はじめて石見の国に立った。

平左衛門は悲しそうな目で 荒れ果てた石見の山や野を見た。
4年続きの飢饉で 20万人の百姓は苦しんでいた。

飢えと疲れにやせ衰え、歩く力もなく倒れたまま
死んでいった母親のおっぱいを 赤ん坊がしきりに探っていた。
「かわいそうに。」
平左衛門は、自分のこれから果たさねばならぬ使命を心深く刻み込んだ。

そのころ、庄屋達が集まっていた。
「代官所へ行って、倉の米を渡してもらうんだ。」
「そんなことしたら、はりつけだ。」
「今さら何をビクビクするものかい。どっちみち死ぬのは目の前だ。」

皆で代官屋敷へ訴え出れば、間違いなくはりつけ獄門である。しかし、20万人の百姓の命には代えられない。
16人の庄屋は腹を決めて、代官屋敷へと向かった。

「さっそくお願い申し上げます。代官所の米をお下げ渡し下さいませ。」「ならぬ。」
「百姓が飢え死にいたします。」
「死にはさせぬ。1人でも死ぬものがあれば、わしが切腹する。それよりも、その方たちに頼みがある。」

「今からすぐに、薩摩へ出発して、琉球芋を持ってくるのじゃ。わしはつくづく考えた。
この狭いやせ果てた土地で作れるのは芋だけじゃ。
このやせ土に毎年みのるものがなくては 石見の国は永遠に救われぬのじゃ。」

「わしはそのまだ見ぬ芋が、必ず石見を救ってくれるものと信じている。」
平左衛門の心が庄屋たちに通じた。
「殿様、参りましょう!」
「行ってくれるか!」

春が来た。 今年こそ作物よ実ってくれ。 だれの願いも一つであった。そして、16人の庄屋がひそかに薩摩に渡って四ヶ月。
今、ついに芋を捧げて帰ってきたのである。
「これだ!これでございます!」

「殿様、皆の衆、これが琉球芋だ。 これが琉球芋といって、そりゃあうまいものなのだ。それ、よく見てくだされ。」

「御苦労であった。厚く礼を言うぞ。これで20万の命が助かるのだ。この種芋を1つの村に8つずつ分配して、来年は一人残らず作れるようにするのだ。」

こうして芋は植えつけられた。

わずかの種芋が、宝物でも埋めたように植えられた。そして、青い葉をすくすくとのばしてきたのである。「元気にのびたな。」
「こういうところに植えるのがよいのだな。」
「早く食べてみたいなあ。」
ところが困ったことがおきた。

「オラ、どうしよう。オラどうしよう。首くくって死んでしまいたいわい。」「どうしたんだ一体、え?」
「オラ、代官様に申し訳ない。大切な、大切な種芋。オラが村全部が食うために預かって育てていた芋を、野ネヅミにみんな食われてしまったのじゃ。畜生! 」困ったことはそればかりではない。

この夏、驚くほど大群のイナゴが飛んできて、作物を根こそぎ奪った。長雨が続いた。寒さが続いた。
稲も麦もモヤシのようにヘナヘナ倒れた。
田んぼのお米、畑の野菜、山や野の実、何もかも実らない。
この年97万人もの人が飢え死にしたという。

平左衛門は決心した。
「わしは1人も死なせぬぞ。石見、200ヶ村の庄屋を直ちに集めよ。百姓は、このままでは飢え死にするばかりだ。
一致協力、地主も小作も一丸となって この凶作と戦わねばならぬ。」ここでうれしい知らせが入った。

「殿様。これが石見の国で生まれた芋でございます。 これだけは無事に育ってくれました。」
「これが石見の芋か。 よく育ててくれた。これを種にして、来年こそは石見の百姓みんなが植えられる。来年は必ず豊作になるぞ。この1年の辛抱だ。」

代官所に庄屋達が集められた。
「その方共を呼び集めたのは他でもない。石見の百姓の苦しみ、最早見るに忍びぬ。代官所にある米、全部20万の領民に与える。」
集まった庄屋はハッと驚き、そして喜びの声を上げた。

「殿様!」
「緊急の場合とはいえ、幕府の許しも得ずに 米の払い下げなど無茶でございます。」
「わかっておる。 しかし、江戸へ飛脚をたてて事を願うにも一ヶ月はかかる。その間に人は死ぬぞ。よい!わしが責任をとる。早々に倉をあけい!」

こうして代官所の米倉が開かれた。

「お米だ。お米だ。白いお米だ。」
「ありがとうございます、ありがとうございます。これで子どもが助かります。」

こうして石見の国では、一人の飢え死にもなかった。しかしその時 幕府の役人が江戸を出発していた。

幕府の許可を得ずに勝手に米を配った罪で
平左衛門は幕府から大森代官の職をとかれ、笠岡で処分を待つことになった。

笠岡へ旅立つ日の朝。
「殿様、お名残惜しゅうございます・・・。」
「よく辛抱してくれた。今年はきっと豊作じゃぞ。」「はい。」

「あっ!殿様!」
「殿様!殿様!」
平左衛門は百姓たちにも罪が及ぶのを恐れ、
1人責任を身に負って、笠岡の陣屋で切腹したのである。幕府の第2の使者は その翌日笠岡に到着した。

その使者が手にしていたのは 平左衛門の罪をゆるし、
長崎奉行に新しく任命するという 老中からの手紙であった。

お百姓さんの苦しみ

井戸さまがお代官さまになった時は大変な時代でした。
ウンカやイナゴなどの虫が畑や田んぼのお米や野菜を全部食べてしまったのです。
お百姓さんは食べるものがなくて飢え死する人がたくさん出ました。

井戸さまの決断

そこで、井戸さまはお米をお百姓さんたちに配ってあげました。お米をもらったお百姓さん達は大喜びをしました。 よかったね。井戸さまの所ではだれも飢え死にする人がいませんでした。

井戸さまサツマイモを広める

でもね、お米は食べてしまったらなくなっちゃうでしょ。井戸さまが雨がふらなかったりしてお米がとれないときにもお百姓さん達が困らないようにしてくださったのです。
それが、このサツマイモです。
サツマイモは「蒸してもおいしい、焼いておいしい、甘い。毎日食べてもあきない。しかも育てるのがかんたん」です。

ところがサツマイモは遠い、遠い薩摩の国にしかありませんでした。
井戸さまは、苦労してサツマイモを手に入れ、みんなに広めてくださったのです。薩摩の国からやってきたイモなのでサツマイモと言うんですよ。
このサツマイモのおかげで、ききんの時に飢え死にする人いなくなりました。
お百姓さん達はとっても喜んで、井戸さまのことを
「イモ代官さま」、「イモ神さま」と呼びました。

弓ヶ浜半島にサツマイモ伝わる

このサツマイモが弓ヶ浜の地に伝わったのは、 それから50年後のことです。
境港の黒見さんが島根県の船乗り甚右衛門じんうえもんさんに
サツマイモを分けてもらったのが始まりです。 砂地がサツマイモが育つのにピッタリだったのでしょう。 弓ヶ浜のお百姓さん達はみんながサツマイモを作るようになりました

浜の芋太

みんなの中でこの言葉を聞いたことのある人はいますか?
みんなのおじいさんやおばあさんの時代、この辺りに住む人のことを「浜の芋太」とよんでいました。
昔は初めの男の子にはよく「太郎」と名前を付けました。
桃から生まれた「桃?」そう、桃太郎だね。
まさかりかついでクマとまたがっていたのは?金太郎、カメを助けて竜宮城に行ったのは?浦島太郎だね。
弓ヶ浜半島に住む人のことを「浜の芋太郎」、略して「浜の芋太」と呼んだのもこの辺りの人が最初にサツマイモを食べることができたからです。

芋代官碑建てられる

お百姓さん達は井戸さまのことが大好きでした。
自分たちの大好きな井戸さまのことをいつまでも忘れないように
石に井戸さまの名前を彫ってお祀りしたのです。
そんな石碑が、日本全国に700もあります。
この夜見のお寺にも、その中の一つがあるんだよ。

井戸さまと私たち

さて、井戸さまの時代からもう300年近くたちました。
今の私たちのまわりには食べ物がたくさんあります。
みんなの中には、ご飯を残して、
「もったいない!」としかられたことのある人もいるかもしれませんね。

でも世界には、今も食べ物がなくて飢え死にしている人がたくさんいます。2秒に一人と言いますから、「1・2。」
この間に1人の人が亡くなっているんですよ。 今こそ、もう一度井戸さまのこと、私たちのご先祖さまのこと、そして私たち自身のことをよく考えてみてはどうでしょう。
これで芋代官さまの話は終わりです。

「芋代官さまのおはなし」

絵:横田純子
言葉:迎接院

「芋代官切腹」

農林省撰定
帝國農會企畫 社團法人農山漁村文化協會製作

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